世界史語呂合わせ―中世

世界史語呂合わせ、紀元後1000年から16世紀にかけてです。この頃から覚える項目も多くなりますが、どんどん面白くなってきます。

世界史語呂合わせ―中世

1066年 ノルマン朝の開始

語呂:ノルマン公とろう無理やりイギリスを

フランス北部のノルマン公国のウィリアムは、1066年にイギリスに侵攻し、これを征服します。ノルマン・コンクエストとして知られるこの征服の結果、ウィリアムはウィリアム1世として即位し、イギリスでノルマン朝が始まります。

ノルマン王朝は100年ほどで途絶え、その後は同じくフランスから来たプランタジネット朝がイングランドを統治することになります。なお、ノルマン朝とプランタジネット朝の時代に、ラテン語やフランス語の語彙が英語に入ってきます。

1095年 クレルモン公会議によって十字軍の派遣が決定

語呂:ウルバヌス遠く御威光十字軍

教皇ウルバヌス2世は1095年にクレルモン公会議を開き、イスラム勢力に対して聖地回復のための遠征を行うことを決定しました。
この背景には、イスラームのセルジューク朝が小アジアに進出し、キリスト教のビザンツ帝国を脅かしていたという事情がありました。

クレルモン会議以後、1096年の第一回十字軍から13世紀の第七回十字軍まで合計7回遠征が行われます。リチャード師子王やフリードリヒ1世、フィリップ2世、サラディンなどの著名な人物が登場するのは、1189年の第三回十字軍です。

1206年 チンギス=ハンのモンゴル帝国樹立

語呂:チンギス=ハン、いずれ向かうぞ西方へ

誰もが知っているモンゴル人、チンギス=ハンは1206年にモンゴル系民族とトルコ系民族を束ねたモンゴル帝国を樹立します。
その後、西方に遠征を行い、ナイマン、ホラムズや西夏を征服しますが、チンギス=ハン自身は遠征の途中で没してしまいます。

しかし、チンギス=ハンの後継者たちによってモンゴル帝国は拡大を続け、13世紀にはロシアや東ヨーロッパにまで勢力を伸ばします。日本も、1274年と1281年の二度にわたってモンゴル帝国の侵攻を受けます。

1215年 神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が即位

語呂:君主なら自由に行こうと教皇批判

1215年に神聖ローマ皇帝として即位したフリードリヒ2世は、当時もっとも開明的な君主として知られていました。
フリードリヒ2世はもともと両シチリアの王でしたが、両シチリアはイスラーム世界の文化も入ってきていた地であり、そこで当時ヨーロッパより進んでいたイスラーム世界の知識を触れます。

当時としては異端ともいえる幅広い教養知識を持っていたフリードリヒ2世は教皇に対しても批判的であり、しばしば教皇庁をやり込めていました。フリードリヒ2世は第五回十字軍にも参加しています。

1299年 オスマントルコの成立

語呂:オスマントルコの建設、周囲の人に汲々と

トルコ人はもともと中央アジアからモンゴル高原にかけて活動していた遊牧民です。しかし、モンゴル帝国によって西方に追いやられると、その一部は小アジアに定住し、1299年にオスマントルコを建設します。

オスマントルコはメッカを支配下におさめてから19世紀に至るまでイスラム世界の中心となる王朝で、一時期は東ヨーロッパの一部を支配下に収め、ウィーンを包囲するほどの勢力を誇りました。また、

1339年 英仏百年戦争の開始

語呂:100年間勇み苦しむ英仏の民

1339年にはイギリスとフランスの間で百年戦争がはじまります。百年戦争と言っても、百年間絶え間なく戦争が続いていたわけではありませんが、断続的に起こる戦闘は両国の民衆を疲弊させました。

百年戦争は最終的に1453年にフランスの勝利で終わります。当初は長弓などを駆使したイギリスが優勢でしたが、フランス側はジャンヌ・ダルクの活躍などもあり次第に優勢になっていきます。

1351年 紅巾の乱

語呂:いざ来いと紅巾つけて元攻める

フビライ=ハンの死後、元の統治にはほころびが見え始めます。そんな中1351年に起こった農民の大暴動は、元の支配に致命的なダメージを与えました。

紅巾の乱の主体となったのは白蓮教徒たちで、紅い布をまとっていたことから紅巾の乱という名前になりました。後に明を樹立する朱元璋もこの反乱に参加しています。朱元璋は1368年に元を滅ぼし、国号を明と定めました。

1453年 ビザンツ帝国の滅亡

語呂:ビザンツが瀕死降参、オスマントルコに

時折危機を迎えつつも、東ローマ帝国時代から脈々と続いてきたビザンツ帝国ですが、1453年についにオスマントルコによって滅ぼされます。この時のオスマントルコ皇帝はメフメト2世です。

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