世界史語呂合わせ―紀元後古代~後期古代

世界史で出てくる年号の語呂合わせです。

今回は紀元後の主要な出来事との年号をご紹介します。

中心は何といってもヨーロッパと中国。もちろん他の地域も大切ですが、世界史の大きな流れを理解するためにはヨーロッパと中国をしっかりと押さえておくことが大切です。

世界史 紀元後

8年 新の成立

語呂:王莽は新をはじめ、前漢おわる

紀元前の中国を彩った王朝、前漢ですが、末期には民衆の反乱が増え、社会が不安定になります。そんな中、紀元後8年に王莽という人物が帝位につき、国号を「元」と改めます。これにより、長かった前漢の時代は終わりを迎えました。

しかし、王莽の統治は上手くいかず、新は紀元後18年に赤眉の乱という農民反乱によって崩壊します。わずか10年しか続きませんでした。新の8年と18年という年号は比較的に覚えやすいので、併せて覚えておきましょう。

25年 後漢の成立

語呂:内乱の不幸なくす光武帝 後漢の成立

赤眉の乱によって新が崩壊した後、しばらくは混乱の時代が続きますが、25年に劉秀という人物が赤眉の乱を平定します。劉秀は光武帝として即位し、ここに後漢が成立します。

なお、光武帝は都を長安から洛陽に移します。後漢の首都としての洛陽は頻出なのでこれもおさえておきましょう。

96年 ローマ五賢帝時代の開始

語呂:100年間賢帝続き苦労なし

今度はローマ帝国です。96年にネルヴァ帝が即位した後、以後5人目の皇帝までは五賢帝の時代となります。ネルヴァ帝の次のトラヤヌス帝の時代にローマ帝国の版図は最大となります。

なお、トラヤヌス帝の次はハドリアヌス帝、アントニウス=ピウス帝と続き、最後がマルクス=アントニウス帝です。マルクス=アントニウス帝は『自省録』を表したことでも有名な哲人君主です。

184年 黄巾の乱

語呂:張角の一派死ぬ気で黄巾の乱

当初は安定した治世だった後漢時代ですが、2世紀になると宮廷内の混乱や、地方豪族や農民の反乱によって体制に揺らぎが見えます。

そして184年に華北で起こった黄巾の乱は後漢時代最大の農民反乱です。黄巾の乱は農民反乱で、張角という人物が率います。ちなみに、黄巾の乱は後漢を崩壊まではさせませんが、中国の王朝の多くは農民反乱によって倒れることが多く、ある種のパターンとなっています。

226年 ササン朝ペルシアの成立

語呂:ササン朝普通無理だよ諸王の王

古代史ではどうしてもヨーロッパと中国が中心になりますが、もちろんそれだけではありません。特にオリエント世界には大事な項目が目白押しです。

ササン朝ペルシアは226年から651年まで続いたイラン人の王朝です。現在のイランから中東にかけて広大な地域を統治しました。
また、ローマ帝国と戦闘を交えてローマ皇帝を捕虜としたり、中国の王朝とも接触するなど、東西交流という点でも重要な王朝です。

313年 ミラノ勅令によってキリスト教公認

語呂:キリスト教再三迫害 以後公認

イエス・キリストの時代から再三にわたって迫害されてきたキリスト教ですが、313年にコンスタンティヌス帝のミラノ勅令によって正式に公認されます。また、キリスト教がローマ帝国の国教となるのは、392年、テオドシウス帝の時代です。

375年 ゲルマン人の大移動開始

語呂:大移動 ローマ人みな困る

ローマの初代皇帝オクタヴィアヌスの頃から時おり接触と衝突のあったゲルマン人ですが、375年に本格的な大移動が始まります。
これにより、ローマ帝国内に多数のゲルマン人が流入。ローマの側もゲルマン人を傭兵として使用するなどします。

ローマ時代のゲルマン人の侵入は5世紀まで続きますが、その後もノルマン人の侵入など、中世にまで続きます。

476年 西ローマ帝国の滅亡

語呂:傭兵に攻められ死なぬ西ローマ

395年に東西に分裂したローマ帝国ですが、西側にはゲルマン人の流入が続き、476年にゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって西ローマ帝国は滅亡してしまいます。

481年 クローヴィスによるフランク王国の樹立

語呂:フランクの世はいつまでもとクローヴィス

フランス北部のフランク族の出であるクローヴィスは481年にフランク王国を樹立します。クローヴィスはローマで正統とされたアタナシウス派のキリスト教を信奉し、これはフランク王国がその後に発展していく要因となります。

フランク王国はその後3分割されますが、それぞれの王国はフランス、北部イタリア、ドイツの原型となります。ローマの古代世界から次第に現代のヨーロッパが形作られていく契機となったのがフランク王国です。

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